文化・歴史
霧島山の麓に暮らす人々は、昔から火山と関わりながら生きてきました。それは、霧島山を取り囲むように点在する神社や麓に伝わる神楽、過去の巨大噴火がもたらした岩石を使った建造物や史跡など、今も残る様々なものから垣間見ることができます。
火山がもたらした石の文化
霧島地域内には、溶結凝灰岩という岩石を使った建造物や史跡などが多く残っています。この岩石は、カルデラを形成するような巨大噴火に伴い発生した火砕流が堆積した際、自らの熱と重みで溶けて再び結合してできるものです。昔の人々は、適度な強度を持ち、当時の技術でも加工しやすかったこの岩石を上手に利用してきました。
例として、水路や木材運搬のために築かれた石橋や、昔の人々の信仰を今に伝える磨崖仏や田の神などがあります。このほかにも、石蔵や人家の石垣など、地域内のいろいろな場所、ふとした所に溶結凝灰岩が使われています。
溶結凝灰岩(霧島市)
火山と信仰のかかわり
神社
有史時代にも噴火を繰り返してきた霧島山周辺には、鎮火や国家安寧を願う神社が多く見られ、主なものとして、霧島六社権現と呼ばれるものがあります。霧島六社権現とは、霧島山を取り囲むように存在する霧島神宮(霧島市)、東霧島神社(高原町)、霧島岑神社(小林市)、夷守神社(小林市)、狭野神社(高原町)、霧島東神社(高原町)の6つの神社の総称です(このほかに、荒武神社(都城市)や白鳥神社(えびの市)を含む説もあります)。六社権現は、繰り返されてきた霧島山の噴火により大きな被害を受けてきた歴史があります。
被害を受けた神社の中には、噴火で社殿などが焼失した後、同じ場所に再建されなかったものもあります。かつての人々は、再び同じ場所で噴火にあうリスクを考えてそうしたのかもしれません。これらの歴史は、活火山の麓で生きる人々が火山とどう向き合ってきたかを今に伝えています。
霧島神宮
6世紀ごろ、高千穂峰と御鉢の間にある背門丘(せとお)に社殿を建てたのが始まりとされています。その後も繰り返された御鉢の噴火などにより数回場所を移し、1484年に島津氏によって現在の場所に再興されました。現在の社殿は、1715年に当時の薩摩藩主である島津吉貴によって寄進されたものです。
社殿は御鉢の溶岩の斜面に石垣を築いて造成されています。正面から見ると屋根が前後に重なる荘厳な景観となり、社殿が国宝と重要文化財に指定されています。
霧島岑神社
霧島神宮と同じく、最初は高千穂峰と御鉢の間にある背門丘(せとお)にあったとされています。その後の御鉢の噴火により焼失し別の場所に移されましたが、1716年の新燃岳の噴火により再び焼失し、夷守岳の中腹に移されました。その後、1874年に同じく六社権現の夷守神社と合祀され、夷守神社の敷地に移転して現在にいたっています。そのため、「霧島六社権現」といっても、神社がある場所としては5か所となっています。
かくれ念仏洞
霧島地域を含む南九州では、戦国時代末期から一向宗(浄土真宗)が禁止されていました。禁制の理由については、当時の支配者である島津氏が、宗派内の封建的性格と平等思想を危険視したためといわれ、厳しい弾圧が行われていました。しかし、ひそかに信仰する人が後を絶たず、信者たちは夜間、人里離れた洞穴(ガマ)などに集まり、念仏を唱えたりして信仰を続けました。そのような洞穴は「かくれ念仏洞」と呼ばれ、現在も各地に残っています。なお、かくれ念仏洞には火砕流堆積物にできた洞穴などが利用されていました。
永久井野のかくれ念仏洞(小林市)
田辺かくれ念仏洞(都城市)